インタビュー: John John Festival 本岡トシ

本岡トシさんは、今回のコンピCDのプロデューサー。面白い人である。
バウロンプレイヤーである彼個人の話と、このCDの話、John John Festivalの話、まとめて聞きました。

 

 

音楽に縁のない暮らしから、突然のアイルランド留学まで。

何年生まれですか?

1978年1月です。東京・練馬区生まれです。

すっと東京ですか。

転々としてました。父の転勤で。海外とか。

海外?

インドネシアに6年くらいいました。小学校1年から小学校6年のはじめくらいまで。

へー。その後は?

名古屋に1年、横浜に中学、高校と。大学は筑波大学、比較文化学類です。

学生時代、音楽をやってたんですか?

いえ、何も。

音楽は結構聴いてたんですか?

いえ、そんなには。僕の音楽経験はすごく浅いです。

じゃあ、大学の時とか、何してたんですか?

本を読んでました。小説とか、文学とか。

サークルは?

サークルは陶芸でした。

本は、どんなのを?

先輩の影響で、アメリカの現代文学が多かったです。

例えば?

ポール・オースターが一番好きで。今、東大の先生の柴田元幸さんの訳がすごく好きで。
大学で習っていた宮本先生が、主にポストモダンの研究をされていた人なので、
ポストモダン関係の文学とか、映画とかを扱ってらっしゃいました。
卒論では、音楽関係のこと、日本語と英語の歌詞の問題みたいなのをちょっとやってみたんです。
別にその時、音楽がとりわけ好きとかじゃなくて、歌詞を見ていたので。

軽音とかのサークルには興味なかったんですか?

1年の最初の新歓の時に、ちょっとジャズ研をのぞいて、ドラムを叩かせてもらったんですけど、
全然難しくて、すぐやめました(笑)。大学時代は音楽とは無縁でした。
聴いてる音楽も別にアイリッシュを聴いていたというわけでは全くなかった、ゼロです、アイリッシュは。
で、卒業旅行でアイルランドに行ったんですね。

それはなぜ?

はっきりとは憶えていないんですけど、好きなもののキーワードが、ケルトが多かったんですよ。
当時、エンヤとかも普通に好きだったし、ゲーム音楽にもケルト的な音楽が多いよって聞いてたし、あと小説とか。
小泉八雲がすごい好きだったし。ちゃんと読めなかったけど、ユリシーズ、あれを出した国はどんな国なんだろうとか。
そんなふうに、すごく興味を引かれて、でも、全然実態がわからない、ということで、ちょっと行ってみよう、と。

期間はどれくらいですか?

2、3週間です。ダブリンとか、あと一周ぷらーっと回ってきたんです。
自分が想像していたイメージとは全然違う国だった。
想像してた部分がぼんやりしていたので、実際に行ってみると、なるほど、という部分が多かったんですけど。
とりわけ一番衝撃が大きかったのは、パブの音楽なんですよね。

夜、ぷらっと、パブに行ったんですか?

そうですね。旅行中は、ほぼ毎日行ってました。

それはお酒が・・・。

(笑)酒もおいしかったんですけどね。最初にぷらっと入ったパブで、やってた音楽がすごく、新鮮に感じられて。
しかも近いんですよね。かなり近い所で、生で聴けるという経験がそれまで皆無だったので。
それで旅の目的がパブ巡りに変わっていったんです。

日本で普通に生活してると、音楽を近くで、生で聴く機会ってあんまりないね。コンサート行っても巨大PAだし。

そうなんです。例えば、友達に連れられて、でっかい洋楽のコンサートに行ったりしたんですよ。
そんなに感動みたいなのは大きいホールでは味わえなかったんです。
パブのような小さいところで感じるものは、それとはまるっきり異質で。
で、その時に、情報なく行ったんですが、なんか、フェスがあるという噂を聞いたんです。
結局、僕がいる間にはなかったんですけど。
ドゥーリンっていう街でフェスがぎりぎりやってるかも、ということで、情報を頼りに行った時に、
日本人の旅行者と知り合ったんです。それが、後でバンドを一緒にやることになるフルートのハタオくんで。
彼も当時学生で武者修行みたいな感じで来てたんですけど。僕の1コ下で、すでに楽器を演奏していて。
とにかく意欲に満ち溢れた人で。

この人は東京?

いえ、京都です。当時、立命館大学の学生で、サークルを立ち上げて間もない頃だった。
アイリッシュにどっぷりはまり込んでいた時期だったと思います。

で、帰ってきて、その後は?

帰ってきて、印象が強かったので、その半年後に、今度は1年間、語学留学で行ったんです。
建前は語学留学だったんですけど、実際はそこで生活してみたくてしょうがなくて行ったんですよ。

すごいね。それはいつですか?

2000年の9月です、向こうに行ったのは。語学学校に在籍してればビザが出るんですよ。
最後の方は授業には出てなかったですけど。
当時、すごく日本人が多くて、僕の他にもいっぱいいたんですけど、でも、音楽をやろうという人はほとんどいなかったですね。
まあ、僕自身も音楽をやろうって思って行ったわけではなくて。

お、何しに?

表向きは英語の上達、で、裏向きは、現地で生活するため。住んでみたかったんです。
そして、住んでるうちに、現地で楽器を始めるわけです。

それがバウロン?

そうです。現地で買いました。2000年の10月頃です。
パブのセッションに毎日通うようになったんですけど、毎日通えば通うほど、聴くだけでは満足いかないっていうか。
むしろ、演奏者としてやってみたいというよりも、その輪の中に興味があったんですよ。
あの(演奏者の)輪の中にいると見える風景が違うのかな、とか。
(観ているだけでは)近いようでいて遠い感じだったんで。
それで、とにかく入りたい一心で楽器を探してて、安いのがホイッスルかバウロンなんですよ。
で、バウロンをやってみようと。

買ってすぐにセッションに入ったんですか?

セッションにはけっこう早い段階から行ってましたね。最初、止められてたんですけど、先生に。
ちゃんと叩けるようになるまでは、待ちなさいっていうことで。
でも、毎日その時は練習してたんで、ある程度はばーっと上手くなって。
10月ごろ楽器を買って年内にはもう参加するようになりました。

先生って?

なんか、日曜教室みたいな感じのところがあって。主婦に教えているような。
その先生はすごく良い先生で、いろいろとイロハを教えてもらったんですよね。

ということは、バウロン歴、まもなく10年になるんですね。

そうですね。

滞在中、いろいろあったんですか?

セッションに参加して。レコーディングにも参加させてもらったり。

それは歓迎されている状態なのでは?

そうですね、やっぱり、楽器が上手くなっていくのと同時に、人間関係も築けるようになっていって、
ミュージシャンとして認められるようになったんですよね。
セッションに多く参加していると、パブの方も普通にドリンクを出してくれるようになったりとか、
あるいは、ちょっと人が足りないんだけど、この日のセッションに来れるか、みたいな感じで、
ギャラもらったり、なんてことが最後の方にはありました。

それはダブリンでですか?

いや、ゴールウェイです。ゴールウェイには既にたくさん日本人がいたんですよ。
翌年の夏くらいには、例のハタオ君が遊びに来たりして。
それで、一緒にフェスティバル行ったり、ストリート(ライブ)やったり、結構、一緒に音を出してたんですよね。
その時に、日本人でこんなに上手く弾けるハタオ君と、一緒にやっても面白いんじゃないかという気持ちが芽生えたり。
ハタオ君は向こうの人と対等に渡り合っている所がすごくて。
そういうのを見ながら、日本人でも出来るんだな、っていう気持ちとかがあったり。
僕は音楽歴がすごく浅かったので、その時は吸収、吸収、だったんですけど、
1年くらいやった後にはすごく欲が出て来て、ずっとトラッドの世界の中でやっていくだけじゃなくて、
バンドみたいなのをやってみたいな、と。
一緒に組んでがっつり考えてやってみたいと、そういう気持ちが丁度芽生えて来た頃だったので、
1年終わった後に、帰ろうと思って、日本に帰ったんです。で、それで、ハタオ君と一緒にバンドを新しく立ち上げて。

2001年の秋くらいですか。

そうですね、正確には2002年の頭くらいですかね。

街はどこで?

京都です。

京都時代

音楽をやりに京都に?

そうですね、何にも考えてなかったんだと思いますよ。
ハタオ君とCRAIC(クラック)っていうバンドを始めました。ゲール語で「楽しみ」みたいな意味なんですけど。

メンバーは?

ハタオ君と僕と、フィドルのミドリさんっていう人と、あと、赤澤さんっていうブズーキの方です。
赤澤さんはすごい大御所で、日本で一番古いアイリッシュバンドと言われている、シ・フォークのメンバーだった人です。
この4人になったのが2002年の夏くらいで、1年くらいやってました。

ライブはどんなところで?

最初は法然院っていうお寺でした。その後は、ライブハウス、パブ。
ツアーも、西は九州、北は北海道まで行きましたね。かなりがっつりやりました。
2003年にはマチヤレコーズっていうレーベルからCDも1枚出しました。
ちょうどそのすぐ後くらいにザッハトルテが同じマチヤレコーズからCDを出しています。
CRAICは2003年末には活動を停止しますが、2004年にはButter Dogsというバンドをはじめました。
CRAICの方はよりトラッド指向が強かったんですが、Butter Dogsは、ギターがロックあがりだったんで、
アレンジは大分トラッドじゃなかったですね。
最初はフィドルもいて4人編成でしたが最終的には、フルート、バウロン、ギターの3人になりました。
Butter DogsでもCDを1枚出しました。

ザッハトルテとも交流があるんですよね。

ザッハトルテとは古くて。アイルランドから帰って来た時からです。
ハタオ君が仲間と立ち上げた、立命館大学の「出前チンドン」っていうサークルがあって。
ザッハトルテはそこの出身なんですよ。民族音楽をなんでもやるサークルだったんですね。
そのサークルにはアイリッシュをやっている人も多かった。他に、ジプシー系、ミュゼット、ファド、アフリカン・・・。
今、そのサークルの出身者が、それぞれプロになって活動しているんです。
その4、5年はすごい厚い層が生まれていて。

その出前チンドンに出入りしていたと。

出入りというか、僕は、そのサークルの関係者とかなり親しく付き合っていました。
そこでいろんな音楽的な交流もあったし。僕の京都時代のキーワードは、出前チンドンと、あと、フィールドですね。
京都にあるアイリッシュパブ、フィールド。やっぱり、パブはコミュニケーションの場所なんですよ。
それは日本でも変わらなくて。フィールドはアイリッシュ関係者がすごく多いんですね。
いろんな人がいましたけれども、とにかく、出入りする中で交流を深めて、新しいバンドを作るとかのきっかけにもなる。

これはどこにありますか?

四条烏丸です。

ここで、演奏しましたか。

はい。ここでは本当によくライブをしましたね。月イチのマンスリーのセッションも持っていたし。

京都のカフェシーンとはつながりがありましたか?アンデパンダンとか。

アンデパンダンとの関わりは僕はちょっと遅いんですよ。
アンデパンダンが閉まっちゃった後に、アヴァンギルドっていうライブハウスを立ち上げていて、そこにはかなり出入りしました。

京都と言えば、mama!milk、交流はありますか?

少し上の世代で、背中を追っかけているという感じです。

東京アイリッシュ・ジェネレーション!

京都にはいつまでいたんですか?

2007年いっぱいです。2008年1月からは東京です。
東京で、アイリッシュ関係者と知り合いになっていくわけです。

東京で、このあたりの人達との付き合いが始まるきっかけは?

オオフジツボの藤野さんです。僕が京都にいる頃、何度かツアーで来てくれて、知り合いになっていて。
彼女はすごいプレイヤーなので、一緒にバンドとかやりたいな、と思っていて、東京来てからバンドを組んだんです。
僕と、藤野さんと、大渕さん&長尾君の4人で。

え?これ、大渕さんと長尾君って、Modern Irish Projectの2人じゃん?

そうですね、でも、それとは違いますね。

時期的にはModern Irish Projectが始まった後だよね。

そうですね。これはナギィって言うんですけど、今はちょっと休んでます。これはオリジナルの方が強いのかな。
とにかく何かやってみたいという気持ちで、いろいろ見た中で際立った人に声をかけて始めたんですけど。
で、その付き合いの中で、対バンしたり、長尾君や大渕さんとかの繋がりの中で、
別のミュージシャンをどんどん紹介してもらう中で、ばーっと横の繋がりが出来て来たんですね。
そんなかんじで、同世代の良いプレイヤーがいっぱいいるんだな、っていうことがわかってきたんです。
このシーンがかなり見えて来たんですよね、この1−2年に間に。付き合いも増えて行って。
アイリッシュなので、しかも、僕はバウロンという立ち位置なので、いろいろなところにサポートで入り易かったりとか、
あるいは逆に声をかけさせてもらったりとか。
変則的に、バンドじゃなくて、一緒にやるユニットみたいなのをよくやったんです。あるいはセッションやるとかね。

パブにとりあえずバウロンを持って行けば、セッションに入れる、っていうことだよね。

そうですね。
で、そういうかたちで、一緒に音を出しながら交流を深めていって、これは、かなりいいミュージシャン達がいっぱいいるぞと。
で、良いバンドもあるのに、惜しむらくは、みんなそれぞれ個別にやっていて、
なかなかその良さが、力が集まっていかないなーっていう思いがあったんですよね。
ちょっともどかしい気持ちだったんですけど、まあ、自分では、その時は、どうしようも出来なかったんですけど。
やっていくうちに、だんだんいろんなエネルギーが溜まってきて、
これは、何かしたい、今の状況を少しだけでも変えてみたい、という思いが強くなってきた中で、
今年の1月にコンピレーションアルバムを作らないか、っていう話が出たんです。

言い出しっぺは?

長尾君です。彼がそういうアイデアをぽっと言ったんです。
ぼくは、最初、レーベルを作ろうっていう意識があったんですけど。
レーベルって要はCDを作ることだよなって、で、コンピレーションアルバムってすごく良いアイデアじゃないかと思って、
話にのっかって。長尾君は最初、もうちょっと、こう、内輪な感じのアルバムを作りたかったみたいなんですけど、
もう少し広げて、一般の人にも聴いてもらえるようなバリエーション豊かなCDのラインナップにしたいと、
僕がその企画を引き継ぐ形になって。僕主体で動いて、いろんな人に声をかけさせてもらったと、いうかんじですね。

五社さんはその流れ?

そうですね。
waitsの下田くんに相談して、こんな企画をやろうと思っているんだけど、いいプレイヤーいないかなって。
五社さんやAsh Groveは下田くんが繋いでくれました。

このシーンおもしろいね。特にリーダーがいるわけじゃなくて。つながりが緩やかだよね。

そうですね。誰がリーダー、みたいなふうだと、やっぱり、かなり派閥的な要素が強くなるし。
そういうのはなるべく避けつつ、まあ、でも、有機的に繋がってひとつの力みたいなのを見せれれば、
それはそれでいいのかな、と思っていて。ただ、その横の繋がりが、あるようでないっていうか。
音頭をとる人がいないんですね、なかなか。それを僕が今年、かって出て、やってみようかなと。

なんか、見渡せるくらいの人数だったりするよね。

そうですね、ちょうど目が届くという。

50人くらいとか。100人いないでしょう?

そうですね・・・。
愛好者も入れれば結構いると思うんですけど、実際、例えば、自分の生活を費やして音楽をやってるっていう人は、
もっと少ないですね。20人くらいじゃないですかね。その中には、技術的にはかなり達している人がいたりとか。

バウロンについて

日本にはバウロンのプレイヤーって結構いるんですか?

んー。バウロン専門でやっているっていう認識の人は、多分、僕ともうひとりくらいですね。

パーカッションの一環としてバウロンをやるひとはいても、っていう?

そうですね。あるいは、他のアイリッシュ楽器と併用でバウロンを叩くとか。

バウロン輸入業者としては、いつ頃からやってるんですか?

それは、しょぼしょぼと、2005,6年くらいから。

教室もやってるんですか?

乞われれば、個人で教えるという感じですね。

バウロン、実際に生で音を聞くとびっくりするよね。心臓の鼓動みたいな音も出るし。

いまはまだマイナーだけど、もっと認知してもらいたい楽器なんですよ。
僕の個人的な目的はバウロンを普及させていくことなんですよ。
でもバウロンを普及させるために、単体で動くことがいいのか、
それとも、シーン全体をぐっと押し上げることが先決なのか、といったら、やっぱり後者で。
それに付随していくだろうという気持ちがあるので。

バウロンの歴史を教えて下さい。これは古典楽器なんですか?

楽器としては古典じゃないです。

へー。それはびっくり。古いものだと思ってた。

僕もびっくりだったんですけど。アイリッシュ音楽で、一番古いのがハープと言われていて。
あと、イーリアンパイプ。他の楽器は、それから徐々に使われるようになった。
バウロンは多分、ハープくらいの歴史があったんじゃないかと思っていたんですけど、
実は、演奏で使われたのは、1968年か69年にショーン・オ・リアダっていう人が使ったのが最初だと言われています。
実際、確かに、その後からバウロン・プレイヤーっていうのが出てくるんですよ、いっぱい。
1970年くらいから使われるようになったという、歴史の浅い楽器なんですね。

へー。

事実、アイルランド音楽って、メロディー楽器がリズムをとるんですよ、基本的に。
なので、ロックバンドでドラムがカウントを出してリズムをキープするっていう発想じゃないんですね。
バウロンもメロディーに追従するような所があるので。
だから、必ずしも必要じゃない、っていうポジションだったんですね。

じゃあ、68年以前は、打楽器は使わなかったと?

そうだと思います。もう、ほんとうにメロディーだけでやって来たんだと思いますね。
現在でもトラッドなスタイルはそう。打楽器とか、伴奏もなしでやっちゃうという。
まあ、そういう歴史の浅い楽器なので、逆に凄く面白くてですね。
例えば、バウロンの楽器構造が異常な速さで変化しているっていうのがあって。

変化してるんだ。

してますね。僕が関わった10年の中でも劇的に変わりました。

近くで見てみると、すごいしっかりとした楽器なんだよね。民族楽器っていう感じがしなくて。工業製品っていうかさ。
それは、今作っているメーカーの努力の賜物で。僕が最初に見た時は民族楽器の範疇でしたね、確実に。
作り、留め具とか接着も結構、荒めでした。もともと、バウロンってお土産物として売られているんですよ。
ケルトの模様が打面に入っていたりして、壁に飾る、という。
それを楽器として使えないこともないんですが、楽器用にどんどん改造されて、今、このような形に至っていると思います。

向こうに行った頃、ゴールウェイのパブで、バウロンを叩いている人はけっこういたの?

そうですね。必ずというわけじゃないけど、パブに行けば結構いるケースが多くて。
ただですね、バウロンってすごく嫌われる楽器なんですよ、他の楽器の人から。
例えば、僕が最初に先生に言われたのは、技術じゃないと。
バウロンをやるんだったら、常に謙虚でありなさいって、言われたんですね。
とにかく、いろんな人からバウロンは敬遠される傾向にあるし、
実際、メロディーが弾けなくても参加出来るので、それがかえって場を乱すことになりかねないと。
音も大きく出るし。
なので、あなたがセッションに参加したいなら、まず、人の音を良く聴いて、人よりも小さく叩いて、
他にバウロン・プレイヤーがいたら、入っていいかどうか訊いて、まず、それよりは入らない方が良い、とか。
なんかそんなふうにすごく言われて。わあ、大変だなあ、と思って。そのマナー的なことが。

そうなんだ。

そのお陰で、僕、初心者ということもあって、すごくそれを謙虚に全部受け入れて。
セッションの時とかもう、ちょっと弱腰になるくらい、いいですか、いいですか、っていう感じだったんですけど。
そういう態度だったんで、向こうもかなり受け入れてくれたし。人の音を聴く癖がついたんですよね。
それがよかったんじゃないかな、と思って。

ザッハトルテとは京都でも一緒にやってたんですか?

はい、個人的にとても親しかったので、なんかの時にゲストで入ってよ、とか、CDのサポートで入ってよ、とか。

ジャンル的には彼らはアイリッシュじゃないよね。

彼らは「出前チンドン」流れなので、レパートリーの中に、アイリッシュ、ジプシー、
ミュゼット、スウィング、ジャズ、と、いっぱいあるんですよ。
で、アイリッシュのレパートリーの中にバウロンを入れたいな、っていう感じで呼ばれるんですよ。

John John Festival結成

そして、John John Festival について教えて下さい。活動はいつ頃からですか?

これは、今年1月からです。
佐賀に個人的に行きたくて、佐賀のミュージシャンに連絡をとって、正月くらいに演奏に行きたいんだけど、
これこれ、こういうメンバーでって。
で、予定していたメンバーがひとり行けなくなって、僕とギターの中村アニーは一緒に行くことが決まっていて、
誰かもうひとり誘おうかっていう話になったときに、アニーはジョンちゃんとよく一緒にやっていたので、
ジョンちゃんも入れて、3人で行ったんです。ぷらーっと。
アイリッシュなんで、そんなに苦労せずネタは決められたんですけど、
ツアーしている中で、思ったよりも波長が合う3人だなっていうのがあって、
そのツアーの中で、キュッと良くなったんですよ。
その手応えがあったんで、帰って来てからけっこう頻繁に、一緒にやり始めたんですよ。
で、コンピの話があったときに、僕がどのバンドでこれに参加するかっていうふうに考えて。
やっぱり歌を入れたいねという話にになって、このバンドでは、
なんかちょっと歌をやっていきたいっていう気持ちがすごくあったので、じゃあ、歌ものをやろうと。
ただ、アニーもジョンちゃんも歌い始めてまだ浅いので、僕が気になっているシンガーをゲストで呼んで、
僕が歌詞を作った歌があるので、それをやってみないか、っていうことで。

へー、フロント二人が歌も歌うバンドなんだ。

そうですね。

普段はどんな歌を歌うんですか?

トラッドをベースにしたオリジナル歌詞の曲が多いです。
それは何でかというと、3人とも、ポップスがすごく好きなんですよ。
例えば、ジョンちゃんはクラムボンが大好きで、アニーはAkeboshiがすごい好きだったり。
湯川潮音とかも好きだし。そういうのを結構聴いてて、そういうポップ感のあるものもやりたいと。

メンバーについて教えて下さい。まずはジョンさん。

彼女は今学生で、東京芸大。6年くらいいらっしゃるんですけど(笑)。
芸大のGケルト在籍です。豊田耕三さんの最初のバンドのメンバーです。
彼女は、この若いシーンの原動力のひとりですね。

東京の人ですか?

田端の子ですね。

学校が実家のすぐ近くなんだ。いいねー。

そうですね。

なんで、ジョンなんですか?

安貞桓(アン・ジョン・ファン 韓国のサッカー選手)が好きで。それでなぜかジョンって呼ばれるようになったらしくって。

アニーさんは?

彼もその豊田さんのバンドのメンバーだったんですね。

じゃあ彼も芸大、Gケルト?IQ高すぎだね、この辺は。

そうですね。でも話してる内容は、偏差値低い内容ばっかりなんですけど。
まあ、ジョンちゃんとアニーは、飄々としてるけど、理論を学んで来ている二人なので、
そこの骨組みはしっかりしているんですよね。

アニーさんは何歳くらいですか?

彼は25くらいですかね。でジョンちゃんがその1個下ですね。

そうなんだ。若いねー。アニーさんが主にギター?

彼はすごく器用で、ギター、ブズーキ、アコーディオンをやります。
活動の幅も広くて、多いのはアイリッシュですが、自分のバンドで、全くアイリッシュに関係ないのをやってたりとか。
絵本の読み聞かせや、劇の音楽をやってます。 今度、John John Festivalでも劇の音楽を演奏します。

これはどうやって出会ったの?

アニーはO'Jizoのメンバーで、僕が東京に来た頃からの知り合いです。
僕はO'Jizoに何回か参加もさせてもらっています。ジョンちゃんはアニーからの紹介です。
去年の夏に3人でセッションをしました。

John John Festivalのこれからの活動計画を教えて下さい。

ツアーとか野外ライブとかどんどんやっていきたいですね。箱の中じゃなくて外。
例えば、今、吉祥寺とかでバスキングというかたちでよくやっていますね。
そういうのがすごく向いているので、そういうオープンな所でやっていくというのがひとつ。
で、あとは、アイリッシュバンドって今たくさんあるので、それぞれの個性が求められていると思うんですよね。
ただメンバーが変わっただけって言われるのが一番良くないので。このバンドの個性は何かという話なんですけど。
アイリッシュって基本的に定型の音楽なんです。
例えば、フォームが決まっていて、ひとつの曲はA、B、Cを2回、3回と繰り返して形をつくるというのがあるんですね。
繰り返しの数も全部決まってたりする。かちっとしてるんです。
で、このバンドに関してはそれをなるべく外そうっていうコンセプトがあって。
例えば、ライブの時に気分が盛り上がって来たらどこまでも続けよう、みたいな。
そういうふうに柔軟性を持たせている。繰り返しによってグルーヴが生まれるっていうのを基本におさえておこうと。
あとは、歌ですね。このバンドは、歌もどんどんやっていきたい。
今、実は日本でやっているアイリッシュ音楽に求められているのが歌なんじゃないかと。
歌のキモの部分をこれで体現していきたいんですけど、多分アイリッシュの歌ってなると、
向こうのものをカバーして英語で歌うってなるんですけど、やっぱり日本人として歌うからには、
日本語で歌っていくのが自然なんじゃないかと。
そうなったときに日本語で詞をつけて、メロディーは向こうのものをカバーしたり、
あるいは自分たちで作ったりして。日本語の歌をアイリッシュの調で歌っていきたい、という気持ちがあります。

その挑戦が「古い映画の話」でありますよね。

そうですね。それをもっと追求していきたい。

シンガーをどこかから見つけてくるっていう話はないですか?

ゲストで素晴らしい方を呼ぶっていうのは企画としてはありですが。
やはりこのシーンをぐっと押し上げていくのは、シーンの中から育った人間じゃないと押し上げられない、と思うんですよね。
歌に関して言えば、時間はかかるけど、その人達がやる気持ちがあれば歌えるわけなので。
幸いこの二人はすごく意欲が高い、歌に対して抵抗なくやりますっていうかんじだったので。じゃあ是非、と。

すごく興味がありますね。それは何かを破るかも知れない。是非、それをやって下さい!

やりたいです。それで、例えば他のバンドに影響が行ったりして、またいろんな人が歌うようになればもっといいし。
歌って、違うジャンルとの繋がりになりやすいのかなって思うんです。
実際に、佐賀の僕の友達のバンド「ななこが」は、この間行って歌った歌を全部カバーしてくれてるし。
この「古い映画の話」は、元々、京都の薄花葉っぱっていう、
ザッハトルテと仲のいいバンドのために僕が作った歌だったりして。
そういうかたちで歌を共有していくっていう感覚もあるし。

この歌は、どういう気持ちをこめて?

京都のバンドって、必ず何か共演曲をやるっていう、すごくいい習慣があるんですよ。
薄花葉っぱと、僕のバンド Butter Dogsが対バンする時、共演曲のために何か1曲作ろうっていう話になったんですね。
で、僕がたまたま聞いていたトラッドの歌、Easy and Slowっていう歌がすごく良い歌だったから、
英語じゃなくてせっかくだから日本語でやりたいなと思って、
そのボーカルの子をイメージして始めて歌詞を作ってみたんです。それがきっかけですね。

これいいよね。この歌。

ありがとうございます。

おおたか静流さんに頼んだのはなぜ?

もともとファイナルファンタジー3っていうゲームの音楽のサントラにおおたかさんの歌が入っていたんです。
「Roaming Sheep」すごく好きな歌で。あとで、それがおおたかさんだと知ったんですが。
物語を歌う時に、物語の雰囲気を非常に上手く作れる歌手だったんですね。
この歌を一番歌ってもらいたい歌手だったんです。

これ良かったよね。最高。アルバムも引き締まったし。

そうですね。
でも今後、ずーっと、おたかさんと一緒に出来る訳でもないので、
こういう歌を自分たちの手で出していきたいっていうのがありますね。

このアルバムの今後の展望について聞かせて下さい。

まずは、このアルバムがより多くの人に届くように。
より多くの人が、日本人がやっているアイリッシュ音楽に対して、認識を深めてもらえるきっかけになればいいなと思います。

ボリューム2、やりたいよね。

そうですね、もうアイデアはあるんですね。

番外編でソングスをやっても良いよね、1枚。歌ものだけで。

そういうのもありですね。

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コメント: 1
  • #1

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